イエスはなぜわがままなのか 岡野昌雄

イエスはなぜわがままなのか (アスキー新書 67)

イエスはなぜわがままなのか (アスキー新書 67)

最近読んだ本の中では、かなりオススメ。
●簡易まとめ
エスの言動の中には、
『神殿の外にある屋台を破壊して回る』とか、
『季節外れで実が成ってなかったイチジクに腹立てて枯らす』とか
『豚飼いの豚でレミングスごっこ』とか、果ては
『私は平和ではなく剣をもたらすために来た』など、
「聖者としてそれはどうよ」なものがある。
それを「それはどうよ」と感じてしまうのは、
聖者とはこういうものである、という固定観念があるからで、
屁理屈こねて正当化するのではなく、ちゃんと意味考えてみないといけない。
その上で「そんなわがままもするイエス≒神」を信仰するというのは、
どういうことなのか……をフェリス女学院院長も勤めた、
かなり徳の高そうなクリスチャンが解説してくれます。



●以下感想
「神と対話せよ」なんてプレートをたまに見ますが、
信仰とはまさに対話だとこの人は言う。
傍らに神がいると信じ、私はこう思うと語りかけたり、
今日あったことを報告したりする。
たとえば、神に対して「なんで助けてくれない」と怒鳴ることも、
そこに神がいると信じるからこそ怒るのだから、
「信仰」つまりは信じるということなのだと。
それによって、人は孤独ではなく、常に傍にいてくれる存在がある、
という安心感(や緊張感)を得て、より良く生きられるのだと。


ちなみに、パッと神がおわすと言っても想像しづらくて語り掛けにくいから、
語り掛けやすい対象として神はイエスという人の形を遣わされた、と。
(ここまでの件、あくまで自分自身の中ではそうだ、と筆者は断っているけれど)
(そして私のまとめ・理解がおかしいことは十二分にありえるけど)


なるほど。
これがクリスチャンだというならばちょっと想像外の感覚。
キリスト教徒を茶化すときに「信者に試練を与えるなんてひどい神だ」
ってネタがあるけど、「まったくうちのGODはひどいぜ!」という応じ方も
アリなわけだ。
とりあえず試練は来ちゃうもの(GODの意図は人間には図れないから)。
それをどう解釈し、どう対処するかは、その人次第、と。




●以下考え
とはいえ。
島崎藤村は「破戒」で、日本人はキリスト教を本当には理解できず、
自分たちのいいように改造して飲み込んでしまう……的な指摘をしている。
それが正しいなら、「この本における信仰」は、
「本当のキリスト教の信仰」ではないわけだ。


私の見た感じ、「この本における信仰」によって得られるものは、
日本では「共同体」がになっていたものと同じではないかと考える。
いつでもそこにある。決して一人ではない安心感と緊張感。
これでは、筆者が日本人として求める安心感を、
キリスト教に転化しているのではという疑念が出る。


また、「この本における信仰」=「本当のキリスト教の信仰」だった場合。
ちょっと思うことがある。
「無いから生まれる」というネタを以前目にしたことがある。
『中国人は道徳心が無いから儒教が生まれた。
 日本人は勇気がないから武士道が生まれた。
 アングロサクソンはずるいからフェアプレーの精神が生まれた。 』
というやつ。
となると、
キリスト教は「自分と対話し、ともに生きてくれる存在が無い」から、
生まれてきたことになるんだろうか。
だとすると、キリスト教が流行っている国の人々は、
どれだけ孤独感に苛まれながら生きているのか……?


とまあ、そういうことを考えさせてくれる本でした。
「イエスのわがまま」っぷりは単純に面白いので、
そこだけ楽しみに読むのも良いと思いますよ。
また「上手いこと正当化」したVerの聖書解説本を読んだことある人なら、
「おおう、こういう解釈のほうが自然」とか
「いやその解釈はあんまりすぎ」というような読み方も出来るかも。